両親入院の疾風怒濤の日々を振り返れば・・

両親入院の疾風怒濤の日々を振り返れば・・

 昨年は、夏から秋、そして年末までほんとうに全速力で駆け抜けた時間であった。

 7月11日に父親が救急搬送されたという連絡が入った。

  わたしは翌日に親友の息子の結婚式に出席する予定であったため、迷った末に、13日に病院へ行くという選択をした。

 父親より友人を優先するのかと思われるかもしれない。

 実は友人は手術後の後遺症があった。息子の結婚式に新郎の母として長時間座っていられるのか心配もあり、もう一人の友人とともに新郎の両親の座るテーブルに着き、彼女をサポートすることになっていたのだった。

 無事にこの慶事の日を終えて、翌日東海道線に飛び乗ると、妹から携帯に電話があり、母親が玄関先で転倒、いまその救急車の中だという。仰天したが、ちょうど母親の搬送先の駅の手前であったので、途中下車して急きょ母親の入院している病院へと向かうことにする。

 母と妹はこの日、父親を見舞おうとしていた。

 母親は玄関のドアを開けようとして、そのまま体操選手のようにころんと一回転して玄関の階段の上に転び、起き上がれなかったという。 診断は大腿部骨折、すぐに緊急手術で人工関節を入れる必要があるのだが、手術は3日後しか空きがないという。

 今、父親はどんな様子だろうか。

 父親の病院は隣の駅の大学病院である。どうしたらいいのだろうか・・。

 父親入院中の大学病院に電話し、母親の手術受け入れを希望する旨を伝え、わたしと妹は父親を見舞うため、妹の車で大学病院に向かった。 妹の説明によると、父親は夜中に胸が苦しくなって救急車を呼んだという。

 95歳の父親は、2年前に偶然診療所で心臓の大動脈弁の開閉不全が指摘されていた。救急搬送時の担当医から妹に連絡が入り、「このまますーっと亡くなってもおかしくありません」といわれ、夜中に埼玉から車を走らせて駆けつけたのだという。

 一方、わたしはといえば、友人の息子の結婚式に出席して1日遅れで到着したのであるから、なんとも親不孝である。

 ICUに入り、ベッドに近づくと、父親は点滴と心電図の管をつけていたが、目を開けて、ああ来たのかと声を出した。父の容態が思っていたより安定していることにほっとする。意識があるということのありがたさ。

 しかし、母親が救急搬送されたことは、この日、父には言えなかった。

 そして翌朝、父親の大学病院から携帯に連絡が入った。母親の手術を引き受けてくれるという。(続く)

本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン

本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン

 「ガッテン」といえば、「ホイきたガッテン」という江戸っ子最上級のオーケーの意味だ。

 しかし、沖縄では「ガッティンナラン」(合点がいかない)という気分が続いたまま5月15日、41年目の本土復帰 の日を迎えるのではないだろうか。

 本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン。この二つの言葉ほど両者の温度差を示すものもないと思う。

  2014年4月28日、東京では安倍内閣主催の「主権回復の日」の式典が開催された。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいることは恥ずかしながら初めて知った。61年前、1952年に発効したサンフランシスコ講和条約によって、沖縄や奄美が米軍統治下になり、翌年には米国民政府は持ち主の同意なしに土地の権利を取得することが可能になった。

 わたしは『ヤマト嫁』という本の取材で、1997年の夏、伊江島を訪れ、反戦地主、阿波根昌鴻さん(当時96歳)の資料館『ヌチドウタカラの家』を見学する機会があった。

 そのとき、5分しか時間がない見学の小学生の前で、車いすの阿波根さんが話す「たった5分であってもおじいにとっては50年の話であります」との言葉の重み。じんとくるものがあった。

「鉄の暴風」といわれる激しい地上戦を生き抜き、ようやく平和が訪れるかと思ったのも束の間、突然、米軍が有刺鉄線を張り、ブルドーザーで田畑を、家を、根こそぎ押しつぶし基地用地を作った事実。「銃剣とブルドーザー」といわれる土地強制収容事件である。

 土地強制収容のさなか1955年には石川市で6歳の少女が米兵に暴行殺害される事件が起こり、以後現在に至るまでレイプ事件や暴行事件、交通事故、大学や民家へのヘリ墜落など、米軍基地によって沖縄県民がこうむる被害は一向に減らない。1961年4月28日、県民総決起大会でこの日を「屈辱の日」と宣言したというが、1972年5月15日に沖縄が本土復帰して41年を経た今年、また沖縄県民は「屈辱の日」を味わわねばならなかったのだ。

 米軍輸送機オスプレイの配備撤回を訴える沖縄の市長らの東京でのデモに罵声が飛んだ、というヘイトスピーチの報道は衝撃ですらあった。大阪市長橋本徹氏の「米軍は沖縄の風俗を活用しては」とのアドバイスにも耳を疑った。

 先日、東北大震災で経済的に行き詰り、住んでいる土地を離れて家族への仕送りのために風俗業に就いている女性を取材したルポルタージュの新聞書評を読んだ。そのような境遇にある人の存在について、わたしはそれまで想像すらできなかった。

 誰もが戦争や災害にあうかもしれない。違う立場の人にある人の思いを想像する力をもちたいと思う。

 

「安里屋ユンタ」は権力に対する抵抗の唄

「安里屋ユンタ」は権力に対する抵抗の唄

 先だって(2014年7月4日)見たドキュメンタリー映画『標的の村』のなかで、八重山民謡『安里屋節』を石垣島白保出身の作曲家・星克がアレンジした『安里屋ユンタ』が唄われる、印象的なシーンがあった。

 沖縄北部やんばるにある東村高江地区。住民たちになんの説明もないまま、新型戦闘機オスプレイのヘリパッドを建設しようと、防衛施設局の作業員がフェンスにしがみつく住民たちの頭上を越えて、資材をクレーンで強硬に運ぶ緊迫シーンだ。

 ひとりの男性が「けんかはしないよ!」と言って、三線を奏で始めた。すると、からだを張って作業員に抵抗していたおじい、おばあ、若い女性も、涙を流しながらも唄いはじめる。

 安里屋ユンタだ。沖縄を訪れる観光客なら、竹富島牛車観光をした人なら、誰もが一度は耳にする唄である。

 元唄は、竹富島の絶世の美女クヤマを讃えた『安里屋節』だ。琉球王府時代、離島には首里王府の役人が駐在し、米や織物を年貢としてより多く納めるよう祭祀を制限するなど、島民の生活全般を管理していた。この役人の世話をする、いわゆる現地妻に娘が選ばれることは、年貢を減らしてもらえたり、裸足でなく履物をはくことを許されたり、様々な意味で名誉なことであった。娘が首里の役人の子を授かれば、特権が約束されたようなものだからである。その慣習が当然のことであった時代に、クヤマは「島の男と夫婦になります」と言って、役人のプロポーズを袖にした。  

 このクヤマの勇気あるふるまいを、島人は「ふられてスゴスゴと別の娘のもとへ走っていった」と唄い踊り、ひそかに溜飲を下げたのであった。誰もが実は、島いちばんの美女が役人の思いのままになることをいまいましく思っていたのである。

 そして第二次世界大戦当時は、沖縄に駐留する日本軍の特攻兵たちの間で「安里屋ユンタ」のお囃子部分、「またはーりぬ ちんだら かぬしゃまよ」が「死んだら神さまよ」という替え歌にして唄われていた、というのは有名な話だ。

 その「安里屋ユンタ」が、今農民の抵抗歌として、映画の舞台である高江の住民たちによって、防衛局の作業員の強行突破の暴挙のなかで唄われたのである。

 ゲート封鎖の車の中でも泣きながら唄う女性の、挑むようなするどい抵抗のまなざし。涙なしに見ることはできなかった。

 琉球新報東京支社報道部長の島洋子さんのお話も示唆に富んだ心をゆさぶるものだった。

 

画家フランシス・ベーコンは、ボーダレス

画家フランシス・ベーコンは、ボーダレス

 先日、竹橋にある東京国立近代美術館で『フランシス・ベーコン展』をみた。結構若い人たちが多く、このアイルランド出身のちょっと変わった、しかし実に先鋭的な絵画がどうみられているのか、興味があった。

 わたしは友人のケルト美術研究家・鶴岡真弓とともにアイルランドに2回旅する好機があり、アイルランドは沖縄に次いで気になる国である。

 ダブリンには街の一角を「自由に表現してもいいよ」とアーティストに提供するエリアがあって、ケルトというヨーロッパの古層文化の上に、若い世代の多い、いわゆる「若い」国が斬新な試みをしていたのが印象に残っていた。

 さて、ベーコン展の会場である。  

 前半は、檻の中で叫ぶ亡霊のような絵が多く、「く、暗~い」とつぶやいてしまうほどだったが、中盤に進むにしたがって、連続写真を連想させるアニメのような表現、次元を自在に行き来する描き方、ガラスを隔てて鑑賞させる展示法、距離感とその超越を重視する考え方に興味がわいた。

 そして、後半。わたしの目が釘付けになったのは、展示会場にあるスクリーンに映し出されたモノクロの映像である。

 1972年の土方巽の舞踏公演であった。

 いわゆる暗黒舞踏をはじめて見たのは、大学の演劇部の仲間と行った百貨店の小さなホールである。思わず吐き気すらおぼえる異形の者たちの姿。生々しい白塗りの肉体。西洋のバレエとは全く異なり、田植えを連想させる土着的な動き。わたしにとって、同時代に産声をあげたBUTOUは衝撃ですらあった。  

 そして今、土方巽のいまでも斬新さをまったく失わない映像『疱瘡譚』に再び驚き、さらにショーケースに展示されていた土方のスクラップブックを見て、わたしは思わず声をあげた。

 土方は、ベーコンの絵から着想を得て、舞踏の台本を作っていたのである。  

 アートがジャンルを超えて影響を与えあう。ベーコンの絵画の衝撃が、演劇の新しいジャンルとしての舞踏を生みだしたとき、国を超えて響きあうものがあったのだ。

 ベーコンの絵の次元を超えようとする越境性、往還性は、彼が(おそらく同性愛者であり)、恋人とともに生と死の境界をも超えることを暗示するかのような、最後の絵からも感じ取れる。

 すぐれたアート、アーティストは真にボーダレスなのだ。

 ジャンルや常識、そして偏見からも自由になる翼をもっている。そのことを敏感に感じとる現代の若者たちの感性もまた、たいしたものではある。

 

島ハーブと八重山料理の店『潭亭』の魅力

島ハーブと八重山料理の店『潭亭』の魅力

 沖縄から島野菜が届いた。送ってくれたのは首里八重山料理の店『潭亭』を切り盛りしている宮城礼子さん。  

 箱の中には、ゴーヤー特大2本、ウイチョーバー(ういきょう)、フーチバー(よもぎ)、ニガナ(苦菜)、チョーミーグサ(長命草)、ハンダマー(水前寺菜)、島らっきょうなどの島野菜たち。本土の野菜に比べるとくせの強い個性的な野菜たちを、わたしは島ハーブと呼んでとても愛おしく思っている。

 とりわけその香りが好きなのは、イーチョーバー。これはスィートフェンネルとして西洋料理ではお馴染みのハーブだが、沖縄のものはフサフサとした葉が柔らかく、より甘くさわやかな香りがする。この香りそのものを味わうのにぴったりの料理法が、カタハランブー。片腹がぶ~っと膨れた、という意味で、布袋様のお腹のようにぷっくり膨らんだ、しずく型の天ぷらだ。沖縄の天ぷらはフリッターに近く、カタハランブーはお菓子のような感じが楽しい。  作り方には、少々コツがいる。タネを鍋肌にすべらせるように流し込んで揚げるのだ。揚げたてをいただくと、びっくり。ぷっくり膨らんだところに歯を立てると、ふわ~っと鼻腔から抜ける甘~い香りにうっとり。キツネ色になった耳の部分はパリっとこうばしく、一品で二度おいしい料理である。   紫色がなんとも美しいハンダマーも大好物。金沢や九州では水前寺菜と呼ぶ地場野菜だ。さっと炒めるとぬめりと紫色の汁が染み出て、お皿に見とれるほどきれいな色の輪ができる。汁物に入れると黒く変色するので、トッピングがお勧めだ。  ニガナはその名の通り苦く薬効があり、魚汁や山羊汁のくせを消すのに用いられる。白和えにすると食べやすくおいしい。  そして、ゴーヤーに次ぐスターと思えるのがチョーミーグサ。生命力が強く、ニガナとともに、岩場や海岸など土のないところに自生するハーブだ。薬効を生かし、お茶や化粧品も登場している。細かく葉を切って刺身のツマや県魚グルクンの南蛮漬けの付け合せにすると、独特の香りに夢中になる。オリーブ油やバルサミコ酢と相性がいいので、サラダにするとおしゃれ。色濃い島野菜にはビタミン、ミネラル、ファイトケミカルと呼ばれる微量栄養素が豊富に含まれているので、生でいただくと栄養素をまるごととることができる。  「潭亭」の島ハーブ料理で、心までやさしく癒されたいと思えてきた。そうだ、オキナワに行こう!

 

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映画『標的の村』で知った日本国の危うさ

映画『標的の村』で知った日本国の危うさ

 先だって(2014年7月4日)ここ松戸で三上智恵監督の『標的の村』が上映され、その内容に深い衝撃を受け、ひさしぶりにブログをアップしたくなった。おりしも特定機密法案、集団的自衛権行使容認という問題に日本国が揺れている今、アメリカから、そして日本政府から「標的」にされ続ける村、沖縄北部やんばるの深い森の中にある東村高江村の住民のすがたは、実は遠いオキナワの知らない村の他人事の話では決してない。あしたのわたしたちそのものなのだと気が付く。  普天間基地返還にともない、辺野古に新たな基地建設の話がもちあがってから、手つかずのままの自然が残る希少な北部エリアは、海もそして森も、人々の暮らしも脅かされている。「未亡人製造機」という綽名があるほど危険度の高い新型輸送機オスプレイの着陸帯建設が説明もなく進められようとする。  なぜここ、高江なのか?その答えは、驚くことに1960年代、ベトナム戦争のゲリラ戦を想定して、ベトナムの自然風土に似た高江村に「ベトナム村」なるものが米軍によって作られ、住民がわずかな食料と引き換えに、訓練と称して米軍の襲撃訓練の標的となっていた、という過去にある。ベトナム風の服を着せられ、頭には編笠をかぶって乳幼児・女性・年寄までもが駆り出され、ゲリラとして米兵に連行される映像が残っている。当時この村に枯葉剤をまいたと証言し、自身がその後遺症に今も悩む元米兵も映画に登場する。  すでに1966年にアメリカは辺野古沿岸に基地を、そしてオスプレイを配備することを計画していた記録があり、1995年の米兵の少女暴行事件によって県民の反基地感情が高まったから、普天間基地の返還を決めたのではないとわかる。「沖縄のために」基地を移設するといいつつ、逆に世論を利用して狙い通りの地に新たな基地を作ろうとしていたと言えるのだ。ベトナム戦のようなジャングルでの訓練も、海上の訓練も出来るオキナワ。多額の維持費を負担する日本は格好の訓練場なのだ。  2012年9月9日、沖縄県民大会でオスプレイ配備計画撤回を求めたのに、日本政府は電話1本で配備を通達。9月22日台風17号通過の中、県民は普天間基地ゲート前に座り込む。30日、座り込みを強行排除する沖縄県警の機動隊と住民。彼らは互いに沖縄県民同士だ。「なぜウチナーンチュ同士で争わなくてはならないのか!本土の人はなにもしないよ!」

沖縄のレジリエンス(復活力)への期待

沖縄のレジリエンス(復活力)への期待

 先日、長寿日本一が発表され、沖縄は長寿県から転落した。  男性は30位、女性は3位という結果は、健康長寿というブランドイメージをそこなうものだろうか。  実はすでに、戦後アメリカ統治下の沖縄にわたり、アメリカ化する食生活と県民の未来を案じ、食生活改善運動を行った人がいた。その人の名は、長年にわたって玄米菜食と自然療法を提唱してきた東城百合子さん。御年88歳である。  2月にここ松戸で講演会が開かれ、会場は超満員であったが、幸いにもお話を聞くことができたのだった。  その講演会のあと図書館で東城さんの本を借りて読み、彼女の健康運動の原点は、沖縄での食生活改善運動であったということを知ったのである。  わたしは1988年から沖縄に通い、沖縄の素晴らしい人たちや魅力的な島ハーブと島野菜、そして神ごとと伝統行事を紹介する文を書いてきた。  2005年に『島唄の奇跡』という本を出版した後、うつ病にかかり、沖縄への旅もできず、多くの人に迷惑をかけながら仕事を断りつづけ、引きこもり生活に突入・・。  しかし、良きドクターに出会い昨年の夏ごろから始めた食事療法で、奇跡的に病から回復できたという経験がある。  多くの病に悩む人々に食の大切さを知ってほしい。わたしが闇から脱出できたように、早く光あふれる世界にもどってきてほしい。  その思いは、沖縄が長寿県転落から立ち上がり、また日本一、いや世界一に復活することへの期待に、どこか重なるものがある。  沖縄の復活力、レジリエンスを見届けるために、また沖縄への旅をはじめたい、いまの沖縄でこそ、東城百合子さんに食生活改善運動の火をふたたび灯してほしいと思うのだ。企画を通し、仕事復帰の記念すべき旅にできればと願っている。フォームの始まり