画家フランシス・ベーコンは、ボーダレス

画家フランシス・ベーコンは、ボーダレス

 先日、竹橋にある東京国立近代美術館で『フランシス・ベーコン展』をみた。結構若い人たちが多く、このアイルランド出身のちょっと変わった、しかし実に先鋭的な絵画がどうみられているのか、興味があった。

 わたしは友人のケルト美術研究家・鶴岡真弓とともにアイルランドに2回旅する好機があり、アイルランドは沖縄に次いで気になる国である。

 ダブリンには街の一角を「自由に表現してもいいよ」とアーティストに提供するエリアがあって、ケルトというヨーロッパの古層文化の上に、若い世代の多い、いわゆる「若い」国が斬新な試みをしていたのが印象に残っていた。

 さて、ベーコン展の会場である。  

 前半は、檻の中で叫ぶ亡霊のような絵が多く、「く、暗~い」とつぶやいてしまうほどだったが、中盤に進むにしたがって、連続写真を連想させるアニメのような表現、次元を自在に行き来する描き方、ガラスを隔てて鑑賞させる展示法、距離感とその超越を重視する考え方に興味がわいた。

 そして、後半。わたしの目が釘付けになったのは、展示会場にあるスクリーンに映し出されたモノクロの映像である。

 1972年の土方巽の舞踏公演であった。

 いわゆる暗黒舞踏をはじめて見たのは、大学の演劇部の仲間と行った百貨店の小さなホールである。思わず吐き気すらおぼえる異形の者たちの姿。生々しい白塗りの肉体。西洋のバレエとは全く異なり、田植えを連想させる土着的な動き。わたしにとって、同時代に産声をあげたBUTOUは衝撃ですらあった。  

 そして今、土方巽のいまでも斬新さをまったく失わない映像『疱瘡譚』に再び驚き、さらにショーケースに展示されていた土方のスクラップブックを見て、わたしは思わず声をあげた。

 土方は、ベーコンの絵から着想を得て、舞踏の台本を作っていたのである。  

 アートがジャンルを超えて影響を与えあう。ベーコンの絵画の衝撃が、演劇の新しいジャンルとしての舞踏を生みだしたとき、国を超えて響きあうものがあったのだ。

 ベーコンの絵の次元を超えようとする越境性、往還性は、彼が(おそらく同性愛者であり)、恋人とともに生と死の境界をも超えることを暗示するかのような、最後の絵からも感じ取れる。

 すぐれたアート、アーティストは真にボーダレスなのだ。

 ジャンルや常識、そして偏見からも自由になる翼をもっている。そのことを敏感に感じとる現代の若者たちの感性もまた、たいしたものではある。