本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン

本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン

 「ガッテン」といえば、「ホイきたガッテン」という江戸っ子最上級のオーケーの意味だ。

 しかし、沖縄では「ガッティンナラン」(合点がいかない)という気分が続いたまま5月15日、41年目の本土復帰 の日を迎えるのではないだろうか。

 本土のガッテンと沖縄のガッティンナラン。この二つの言葉ほど両者の温度差を示すものもないと思う。

  2014年4月28日、東京では安倍内閣主催の「主権回復の日」の式典が開催された。沖縄ではこの日を「屈辱の日」と呼んでいることは恥ずかしながら初めて知った。61年前、1952年に発効したサンフランシスコ講和条約によって、沖縄や奄美が米軍統治下になり、翌年には米国民政府は持ち主の同意なしに土地の権利を取得することが可能になった。

 わたしは『ヤマト嫁』という本の取材で、1997年の夏、伊江島を訪れ、反戦地主、阿波根昌鴻さん(当時96歳)の資料館『ヌチドウタカラの家』を見学する機会があった。

 そのとき、5分しか時間がない見学の小学生の前で、車いすの阿波根さんが話す「たった5分であってもおじいにとっては50年の話であります」との言葉の重み。じんとくるものがあった。

「鉄の暴風」といわれる激しい地上戦を生き抜き、ようやく平和が訪れるかと思ったのも束の間、突然、米軍が有刺鉄線を張り、ブルドーザーで田畑を、家を、根こそぎ押しつぶし基地用地を作った事実。「銃剣とブルドーザー」といわれる土地強制収容事件である。

 土地強制収容のさなか1955年には石川市で6歳の少女が米兵に暴行殺害される事件が起こり、以後現在に至るまでレイプ事件や暴行事件、交通事故、大学や民家へのヘリ墜落など、米軍基地によって沖縄県民がこうむる被害は一向に減らない。1961年4月28日、県民総決起大会でこの日を「屈辱の日」と宣言したというが、1972年5月15日に沖縄が本土復帰して41年を経た今年、また沖縄県民は「屈辱の日」を味わわねばならなかったのだ。

 米軍輸送機オスプレイの配備撤回を訴える沖縄の市長らの東京でのデモに罵声が飛んだ、というヘイトスピーチの報道は衝撃ですらあった。大阪市長橋本徹氏の「米軍は沖縄の風俗を活用しては」とのアドバイスにも耳を疑った。

 先日、東北大震災で経済的に行き詰り、住んでいる土地を離れて家族への仕送りのために風俗業に就いている女性を取材したルポルタージュの新聞書評を読んだ。そのような境遇にある人の存在について、わたしはそれまで想像すらできなかった。

 誰もが戦争や災害にあうかもしれない。違う立場の人にある人の思いを想像する力をもちたいと思う。